沖縄の歴史
ここ数年、年末の那覇マラソンに参加することが毎年恒例のイベントになっていて、去年の2019年も那覇マラソンに参加しました。
いつもはレンタカーを借りずに那覇市内、遠くに行っても宜野湾市を訪れいていたいましたが、今回は長めに休みを取って、レンタカーを借りて沖縄の歴史を訪ねてきました。
今回訪れた場所は、ひめゆり平和祈念資料館と沖縄平和祈念公園。
初めて那覇マラソンは走った時、2013年は、旧海軍司令部壕を訪ねました。
旧海軍司令部壕は、昭和19年(1944年) 日本海軍設営隊(山根部隊) によって掘られた司令部壕で、当時は450mあったそうで、米軍の艦砲射撃に耐え、持久戦を続けるための地下陣地で、4000人の兵が収容されていたそうです。
ひめゆり平和祈念資料館
ひめゆり平和祈念資料館は、沖縄の南、糸満市にあります。
ひめゆり平和祈念資料館は、1983年1月に、ひめゆり学徒隊に関する資料などを展示し、戦争の悲惨さを後生に伝えるための資料館として建設しようと資料館建設期成会を設置され、1989年6月23日、ひめゆりの塔の隣地に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館しました。
ひめゆり学徒隊とは、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸し、熾烈な地上戦が展開され、当時沖縄にあった21の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られました。
当時、真和志村安里(現在の那覇市安里)にあった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校からは、生徒222名、教師18名が南風原の沖縄陸軍病院に動員され、そしてそのうち136名が戦場で命を落としました。両校から動員された生徒・教師たちを戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ぶようになりました。
戦場に送られた女子学徒は15歳から19歳で、主に陸軍病院等で看護活動にあたり、男子学徒は14歳から19歳で、上級生は「鉄血勤皇隊」(物資輸送・橋の補修等)に、下級生は「逓信隊」(電線の修復・電報の配達等)に編成されました。
(参照:ひめゆり平和記念資料館HPより)
沖縄師範学校女子部は、軍事のための学校ではなく、教員養成を目的とした学校で、修業年限は予科3年、本科2年の5年。国民学校、国民学校高等科を経て受験・進学し予科から学ぶ方法と、高等女学校を卒業して受験し、本科に進学する方法がありました。
沖縄県立第一高等女学校は「知性あふれる教養豊かな女性の育成」を目標として設立され、修業年限は4年、国民学校卒業後受験して進学しました。
両校は1916(大正5)年に財政的な理由で併置校となり、学園内の施設を共有し、同じ先生に学ぶという姉妹校のような関係になり、全県下から難関を突破して集まった両校の生徒たちは、恵まれた教育環境の中で笑顔のあふれる学園生活を送っていましたが、戦争によってその学生生活が一変したのです。
(参照:ひめゆり平和祈念資料館HPより)
ひめゆり平和記念資料館にあるひめゆりの塔、その足元には「伊原第三外科壕」があります。このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍病院第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所です。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなり、ひめゆり学徒の最後の地のひとつです。
先日、ひめゆり学徒隊の映画「あゝひめゆりの塔」がTVで放映されていました。
気になったので録画して観ると、実際にひめゆり平和祈念資料館を訪れていたこともあり、自分の深いところに響きました。
自分の10代後半も、今もずっと、好きに自由に生きてきました。
しかし、生まれた時代によってこうも違うのか、実際に自分が戦時中に生きていたらなど、色々考えさせれました。
沖縄平和祈念公園
平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。
公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。
ここに刻まれている数が、沖縄戦で亡くなられた数。
実際に訪れると、膨大な数です。
「平和の礎(いしじ)」建設趣旨
私たち沖縄県民は、去る沖縄戦などで貴い命を失ったすべての人々に哀悼の意を表し、悲惨な戦争の教訓を後世に正しく継承するとともに、沖縄の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和を願い、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して、ここに「平和の礎」を建立する。
国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっていたり、休日には多くの家族連れが繰り出し、広い芝生で球技を楽しんだり、ピクニックやレクリェーションの場として利用されているそうです。
このような場所が、特別な場所としてあるわけではなく(もちろん特別な場所です)、日常の中にあり、普段から身近にあるような環境が素晴らしいと思いました。
沖縄の過去にふれて(ダークツーリズム)
沖縄戦は90日間続き、日本上陸を遅らせるために米軍を沖縄に釘付けにしました。日本を守るために、沖縄ではゲリラ戦が続けられたのです。
その過去があって今の日本があり、沖縄の観光があり、那覇マラソンでは市民がおもてなしをしてくれています。
那覇マラソンでは、ひめゆり平和祈念資料館の前を通過し、沖縄平和祈念公園が中間地点となっています。恥ずかしながら、今までそこまで考えたことがなかったのですが、これからは今の平和に感謝して通過しなければいけないなと思いました。
独立する前に、ヨーロッパ建築行脚ではドイツのアウシュビッツ収容所を訪れ、NYの新たなワールドトレードセンターが建つ前にワールドトレードセンター跡地を訪れ、戦争やテロのことに触れるようにしてきました。
ダークツーリズムとは、戦争跡地や災害被災跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光で、負の記憶から教訓を学ぶ旅のことを言います。
悲しい旅だが、過去に何が起きたか、なぜ起きたかを知ることはとても重要。なぜ悲しい出来事が起きたかは起きてみるまで分からないが、それを避ける唯一の方法が過去から学ぶことができるし、どうして親日なのか、どうして反日なのかなども、立場によって見方が変わるため、これからもダークツーリズムは続けたいと思っています。
沖縄戦が、原爆が、パールハーバーが、など、まだ総合的に俯瞰して語ることはできませんが、まずは知ることが大切だと考えています。
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